星になった二人
2009年 08月 14日
2009年、夏。
梅雨が長引いたのは、きっとお天道様が泣いていたせいだ。
私にとって、おそらく一生忘れられない季節になった。
患者さんに、個人的な思い入れは禁物ということは理解しているけれど、
彼女たちに情が生まれてしまうのは、仕方のないことだと思う。
だってあの二人は、私を変えてしまったんだ。
私の人生観も、私の看護/助産観も、私の死生観も。
カルテに記録はできなかったけれど、約3年間色んな会話があった。
患者と看護師というのは、とても特別な関係だと思う。
患者も看護師も、人と人の間に在る存在で、
そこに波長が合う人は絶対に存在して、
家族でもない、友だちでもない、でも大切な存在になりうる。
私の中でBさんとCさんは、そんな存在だった。
旅の途中~帰った直後、私は生命(いのち)を感じざるを得ない数日があった。
旅の途中で、彼女たちの容態がメールで伝わる。
旅から帰った直後、一晩で何件もの出産に立会い、生命(いのち)の息吹を感じた。
ほっと一息ついた後、分娩室。
彼女が空へと旅立ってしまったことを知った。
そのしばらく後、今度は彼女までも空へ旅立ったことを知った。
これを偶然というならば、偶然って凄すぎる。
私の中で、いのちは確実に紡がれていく。
Bさん、ありがとう。
いつも心からの笑顔をした、本当に可愛らしいおばあちゃんだった。
私が今まで出逢った中で、一番と言っていいほど愛溢れる人だった。
そして自分の死をごく自然に受け止めていらして、毎日を明るく過ごしていた。
「お父さんといつも話してるねん。最期まで笑って楽しく過ごそうって。」
ただ傍に居て話に耳を傾けただけなのに、彼女はいつもいつも手を合わせる。
「さすってくれて楽になったよ、ありがとう。」と、手を握ってくれた。
Bさんの沈黙と笑顔が、胸にせまった。
素敵な旦那さんと二人で、「子どもが居ないから孫のようだ」と云ってくれた。
庭で育てたゴーヤを、こっそり持ってきてくれた。
私の手を本当に愛おしそうにさすって、ほっぺに両手を当ててぎゅっとされた。
最期はお家で逝きたいと、彼女は笑顔で退院した。
お父さんが席を外した少しの合間、彼女は眠るように旅立った。
Cさん、ありがとう。
私とたった3つしか違わない、とても可愛らしく美しい女性だった。
発病したのが、奇しくも私の現在の年齢。
私の仕事用の日記には、彼女の様子や対話に溢れていた。
きっと忘れたくなくて、記したのだ。
毎日、彼女の体調はどうだろうと気になった。
Cさんの大切な日の一日の、ほんの数分だけでも一緒に居たかった。
旦那さんの希望ともちろんCさんの願いでもあり、彼女は退院していった。
ろうそくの灯があと少しで消えてしまうことを、十分理解した上で。
旦那さんと二人でお昼寝をしていた。
旦那さんがふと目覚めたときに、彼女はもう旅立ってしまっていた。
最期の旅立つ時まで、彼女たちは素敵だった。
一番大切な人を想う心が、優しさが、強さが、そういう形となった。
私は、そう思う。
患者さんと看護師の関係は、本当に不思議。
ありがたくって、かけがえの無い関係。
自分次第で、周りの人次第で、私の世界はどんどん変わっていく。
私の人生は、どれだけ濃くなって、混ざり合っていくんだろう。
空を仰ぐ時間が、また多くなりそうです。
朝も昼も夜も
見えなくたって
瞬いていたって
手が届かなくても、そこに居てくれる。
そんな気がしています。
Ziziの実日記です。
↓ ↓ ↓
1月某日。久々にCさんとゆっくり話す。倦怠感と腰痛で身の置き所がない様子。
体調の波がとても大きいらしい。ボル坐(鎮痛剤)でしばらくウトウトしてくれ安心。
もっと安楽なケアを考えていきたい。
2月某日。Cさんの手術が終わった。
予定していた時間よりも1時間半早く家族が呼ばれた。
希望していたオペはできず、~オペは終了。
Cさんも旦那さんもあんなに望んでいたことなので、とても残念で仕方がない。
「これもあいつの運命なのかな・・。」と現実を受け入れようと強く在る旦那さんの姿と
Cさんを見ると、本当に無常を感じる。現実は厳しい。
お腹に傷や管が増えた。でもオペに踏み切ったCさんとそれを支える旦那さんにとっては、
今日も大切な一歩なんだ。
2月某日。何だか毎日Cさんのことが思い浮かぶ。
早く、一日でも早く家へ帰してあげたい。
オペ後、せめて問題なく回復してほしい。
数日間、処置について、薬の投与量の変更、様々なデータの記載あり。
(熱が出たり、痛みが強くならないといいけどな・・)とメモあり。
様々な症状に、自分なりのアセスメント記載あり。
Cさんと言葉が交わせるのは、準・夜勤の1/2の確率。
もっと伝えたいことはあるのに、うまく言葉にできない。
残された時間なんて考えたくないけれど、いったい何ができるんだろう。
2月末。ひさびさにゆっくり話す。
「来るたびにボロボロになってきて。」と笑って話すCさん。とても晴れた笑顔。
「病院はすごいきれいやけど、狭くてごちゃごちゃした家がやっぱりいい。」と云っていた。
一刻でも早く帰りたくて、階段で帰っていった二人。
『いってらっしゃい―。おかえりなさい―。』外泊でよく皆が口にする言葉。
この二つの言葉に対する違和感はこういうことだったのかと思う。
3月某日。在宅に向けて、様々な調整や準備について記載あり。
早く家に帰してあげたい。
二人の笑顔を見ながら、一刻も早く退院できる日を迎えたい。
4月某日。眠るCさんの傍らで旦那さんより。
桜が咲いているから見せてやりたいけど、ずっと歩かないといけない。
車椅子を買って連れて行ってやりたい。
諦めたくない。
横浜の病院を受診した。小旅行だった、と笑顔みせる。
4月は長期休暇をとった。これでずっとみてやれる。
引越しするので、早く退院させてやりたい。
でも思いより早く悪化していると涙される。
(してあげたいことが、どんどん溢れている。)
SpO2:80%まで低下。胸水・腹水による呼吸苦。
胸水400ml (右)抜水。O2(酸素)5㍑下にて改善。
準夜帯で、疼痛増強。背部へ放散痛。
デュロテップ(麻薬)使用、ボル坐使用もすぐに疼痛増強。
アンペック坐(麻薬)使用にて嘔気増強。
鎮痛剤が効かない。
旦那さんが帰ってから、「もうアカン、アカン・・。」と小さな声でつぶやくように叫んでいた。
帽子を取り、短い髪をくしゃくしゃとした。
「早くお家に帰りたい。」と私に抱きついた。Cさんの細い背中。
絶望のような悲鳴が全身に伝わってきて、私は言葉が出なかった。
「ごめんね、Cさん。何もしてあげれんくて。ごめん。」
ただ一緒に居るしかなかった。
少しだけ休ませてあげたい。そう思った。
「少しの時間休みたいですね・・。」と声をかけると、うなづいている。
4月某日。麻薬などの使用量記載。全身状態記載。
在宅Dr.、酸素、HPN(高カロリー中心静脈栄養)、etc 在宅着々。
「いつもしんどい時に居てくれるから」
「たまにはこういう元気な時も見といてもらわな」と可愛らしい笑顔で云ってくれた。
入院一週間前までは、彼女は台所に立っていたそうだ。
在宅の先生が来るからと、チーズケーキなんかも焼いたりしていたそう。
(意識)レベルが低下していた。
旦那さんが「〇〇、家に帰ろう。」と声を掛けると、満面の笑みがこぼれた。
「家に帰ろう。」って、こんなにも幸せな言葉なんだ。
梅雨が長引いたのは、きっとお天道様が泣いていたせいだ。
私にとって、おそらく一生忘れられない季節になった。
患者さんに、個人的な思い入れは禁物ということは理解しているけれど、
彼女たちに情が生まれてしまうのは、仕方のないことだと思う。
だってあの二人は、私を変えてしまったんだ。
私の人生観も、私の看護/助産観も、私の死生観も。
カルテに記録はできなかったけれど、約3年間色んな会話があった。
患者と看護師というのは、とても特別な関係だと思う。
患者も看護師も、人と人の間に在る存在で、
そこに波長が合う人は絶対に存在して、
家族でもない、友だちでもない、でも大切な存在になりうる。
私の中でBさんとCさんは、そんな存在だった。
旅の途中~帰った直後、私は生命(いのち)を感じざるを得ない数日があった。
旅の途中で、彼女たちの容態がメールで伝わる。
旅から帰った直後、一晩で何件もの出産に立会い、生命(いのち)の息吹を感じた。
ほっと一息ついた後、分娩室。
彼女が空へと旅立ってしまったことを知った。
そのしばらく後、今度は彼女までも空へ旅立ったことを知った。
これを偶然というならば、偶然って凄すぎる。
私の中で、いのちは確実に紡がれていく。
Bさん、ありがとう。
いつも心からの笑顔をした、本当に可愛らしいおばあちゃんだった。
私が今まで出逢った中で、一番と言っていいほど愛溢れる人だった。
そして自分の死をごく自然に受け止めていらして、毎日を明るく過ごしていた。
「お父さんといつも話してるねん。最期まで笑って楽しく過ごそうって。」
ただ傍に居て話に耳を傾けただけなのに、彼女はいつもいつも手を合わせる。
「さすってくれて楽になったよ、ありがとう。」と、手を握ってくれた。
Bさんの沈黙と笑顔が、胸にせまった。
素敵な旦那さんと二人で、「子どもが居ないから孫のようだ」と云ってくれた。
庭で育てたゴーヤを、こっそり持ってきてくれた。
私の手を本当に愛おしそうにさすって、ほっぺに両手を当ててぎゅっとされた。
最期はお家で逝きたいと、彼女は笑顔で退院した。
お父さんが席を外した少しの合間、彼女は眠るように旅立った。
Cさん、ありがとう。
私とたった3つしか違わない、とても可愛らしく美しい女性だった。
発病したのが、奇しくも私の現在の年齢。
私の仕事用の日記には、彼女の様子や対話に溢れていた。
きっと忘れたくなくて、記したのだ。
毎日、彼女の体調はどうだろうと気になった。
Cさんの大切な日の一日の、ほんの数分だけでも一緒に居たかった。
旦那さんの希望ともちろんCさんの願いでもあり、彼女は退院していった。
ろうそくの灯があと少しで消えてしまうことを、十分理解した上で。
旦那さんと二人でお昼寝をしていた。
旦那さんがふと目覚めたときに、彼女はもう旅立ってしまっていた。
最期の旅立つ時まで、彼女たちは素敵だった。
一番大切な人を想う心が、優しさが、強さが、そういう形となった。
私は、そう思う。
患者さんと看護師の関係は、本当に不思議。
ありがたくって、かけがえの無い関係。
生まれること、亡くなること
生きること、死ぬこと
生きているということ、生き抜くこと
誰かのそれらを見届けるということ
自分のそれらを感じ、考えること
自分次第で、周りの人次第で、私の世界はどんどん変わっていく。
私の人生は、どれだけ濃くなって、混ざり合っていくんだろう。
空を仰ぐ時間が、また多くなりそうです。
朝も昼も夜も
見えなくたって
瞬いていたって
手が届かなくても、そこに居てくれる。
そんな気がしています。
Ziziの実日記です。
↓ ↓ ↓
1月某日。久々にCさんとゆっくり話す。倦怠感と腰痛で身の置き所がない様子。
体調の波がとても大きいらしい。ボル坐(鎮痛剤)でしばらくウトウトしてくれ安心。
もっと安楽なケアを考えていきたい。
2月某日。Cさんの手術が終わった。
予定していた時間よりも1時間半早く家族が呼ばれた。
希望していたオペはできず、~オペは終了。
Cさんも旦那さんもあんなに望んでいたことなので、とても残念で仕方がない。
「これもあいつの運命なのかな・・。」と現実を受け入れようと強く在る旦那さんの姿と
Cさんを見ると、本当に無常を感じる。現実は厳しい。
お腹に傷や管が増えた。でもオペに踏み切ったCさんとそれを支える旦那さんにとっては、
今日も大切な一歩なんだ。
2月某日。何だか毎日Cさんのことが思い浮かぶ。
早く、一日でも早く家へ帰してあげたい。
オペ後、せめて問題なく回復してほしい。
数日間、処置について、薬の投与量の変更、様々なデータの記載あり。
(熱が出たり、痛みが強くならないといいけどな・・)とメモあり。
様々な症状に、自分なりのアセスメント記載あり。
Cさんと言葉が交わせるのは、準・夜勤の1/2の確率。
もっと伝えたいことはあるのに、うまく言葉にできない。
残された時間なんて考えたくないけれど、いったい何ができるんだろう。
2月末。ひさびさにゆっくり話す。
「来るたびにボロボロになってきて。」と笑って話すCさん。とても晴れた笑顔。
「病院はすごいきれいやけど、狭くてごちゃごちゃした家がやっぱりいい。」と云っていた。
一刻でも早く帰りたくて、階段で帰っていった二人。
『いってらっしゃい―。おかえりなさい―。』外泊でよく皆が口にする言葉。
この二つの言葉に対する違和感はこういうことだったのかと思う。
3月某日。在宅に向けて、様々な調整や準備について記載あり。
早く家に帰してあげたい。
二人の笑顔を見ながら、一刻も早く退院できる日を迎えたい。
4月某日。眠るCさんの傍らで旦那さんより。
桜が咲いているから見せてやりたいけど、ずっと歩かないといけない。
車椅子を買って連れて行ってやりたい。
諦めたくない。
横浜の病院を受診した。小旅行だった、と笑顔みせる。
4月は長期休暇をとった。これでずっとみてやれる。
引越しするので、早く退院させてやりたい。
でも思いより早く悪化していると涙される。
(してあげたいことが、どんどん溢れている。)
SpO2:80%まで低下。胸水・腹水による呼吸苦。
胸水400ml (右)抜水。O2(酸素)5㍑下にて改善。
準夜帯で、疼痛増強。背部へ放散痛。
デュロテップ(麻薬)使用、ボル坐使用もすぐに疼痛増強。
アンペック坐(麻薬)使用にて嘔気増強。
鎮痛剤が効かない。
旦那さんが帰ってから、「もうアカン、アカン・・。」と小さな声でつぶやくように叫んでいた。
帽子を取り、短い髪をくしゃくしゃとした。
「早くお家に帰りたい。」と私に抱きついた。Cさんの細い背中。
絶望のような悲鳴が全身に伝わってきて、私は言葉が出なかった。
「ごめんね、Cさん。何もしてあげれんくて。ごめん。」
ただ一緒に居るしかなかった。
少しだけ休ませてあげたい。そう思った。
「少しの時間休みたいですね・・。」と声をかけると、うなづいている。
4月某日。麻薬などの使用量記載。全身状態記載。
在宅Dr.、酸素、HPN(高カロリー中心静脈栄養)、etc 在宅着々。
「いつもしんどい時に居てくれるから」
「たまにはこういう元気な時も見といてもらわな」と可愛らしい笑顔で云ってくれた。
入院一週間前までは、彼女は台所に立っていたそうだ。
在宅の先生が来るからと、チーズケーキなんかも焼いたりしていたそう。
(意識)レベルが低下していた。
旦那さんが「〇〇、家に帰ろう。」と声を掛けると、満面の笑みがこぼれた。
「家に帰ろう。」って、こんなにも幸せな言葉なんだ。
by black-dolphin
| 2009-08-14 15:05
| 和の話