One Octave

目指すは「unique」な音色。大切なのは日常。                                               

星になった二人

2009年、夏。
梅雨が長引いたのは、きっとお天道様が泣いていたせいだ。

私にとって、おそらく一生忘れられない季節になった。

患者さんに、個人的な思い入れは禁物ということは理解しているけれど、
彼女たちに情が生まれてしまうのは、仕方のないことだと思う。

だってあの二人は、私を変えてしまったんだ。
私の人生観も、私の看護/助産観も、私の死生観も。

カルテに記録はできなかったけれど、約3年間色んな会話があった。

患者と看護師というのは、とても特別な関係だと思う。
患者も看護師も、人と人の間に在る存在で、
そこに波長が合う人は絶対に存在して、
家族でもない、友だちでもない、でも大切な存在になりうる。

私の中でBさんとCさんは、そんな存在だった。

旅の途中~帰った直後、私は生命(いのち)を感じざるを得ない数日があった。
旅の途中で、彼女たちの容態がメールで伝わる。
旅から帰った直後、一晩で何件もの出産に立会い、生命(いのち)の息吹を感じた。
ほっと一息ついた後、分娩室。
彼女が空へと旅立ってしまったことを知った。
そのしばらく後、今度は彼女までも空へ旅立ったことを知った。

これを偶然というならば、偶然って凄すぎる。
私の中で、いのちは確実に紡がれていく。
星になった二人_b0088089_15244672.jpg

Bさん、ありがとう。
いつも心からの笑顔をした、本当に可愛らしいおばあちゃんだった。
私が今まで出逢った中で、一番と言っていいほど愛溢れる人だった。

そして自分の死をごく自然に受け止めていらして、毎日を明るく過ごしていた。
「お父さんといつも話してるねん。最期まで笑って楽しく過ごそうって。」
ただ傍に居て話に耳を傾けただけなのに、彼女はいつもいつも手を合わせる。
「さすってくれて楽になったよ、ありがとう。」と、手を握ってくれた。
Bさんの沈黙と笑顔が、胸にせまった。
素敵な旦那さんと二人で、「子どもが居ないから孫のようだ」と云ってくれた。
庭で育てたゴーヤを、こっそり持ってきてくれた。
私の手を本当に愛おしそうにさすって、ほっぺに両手を当ててぎゅっとされた。

最期はお家で逝きたいと、彼女は笑顔で退院した。
お父さんが席を外した少しの合間、彼女は眠るように旅立った。

Cさん、ありがとう。
私とたった3つしか違わない、とても可愛らしく美しい女性だった。
発病したのが、奇しくも私の現在の年齢。

私の仕事用の日記には、彼女の様子や対話に溢れていた。
きっと忘れたくなくて、記したのだ。

毎日、彼女の体調はどうだろうと気になった。
Cさんの大切な日の一日の、ほんの数分だけでも一緒に居たかった。

旦那さんの希望ともちろんCさんの願いでもあり、彼女は退院していった。
ろうそくの灯があと少しで消えてしまうことを、十分理解した上で。

旦那さんと二人でお昼寝をしていた。
旦那さんがふと目覚めたときに、彼女はもう旅立ってしまっていた。

最期の旅立つ時まで、彼女たちは素敵だった。
一番大切な人を想う心が、優しさが、強さが、そういう形となった。
私は、そう思う。

患者さんと看護師の関係は、本当に不思議。
ありがたくって、かけがえの無い関係。

生まれること、亡くなること
生きること、死ぬこと
生きているということ、生き抜くこと
誰かのそれらを見届けるということ
自分のそれらを感じ、考えること

自分次第で、周りの人次第で、私の世界はどんどん変わっていく。
私の人生は、どれだけ濃くなって、混ざり合っていくんだろう。

空を仰ぐ時間が、また多くなりそうです。

朝も昼も夜も
見えなくたって
瞬いていたって
手が届かなくても、そこに居てくれる。
そんな気がしています。


Ziziの実日記です。
  ↓  ↓  ↓



1月某日。久々にCさんとゆっくり話す。倦怠感と腰痛で身の置き所がない様子。
体調の波がとても大きいらしい。ボル坐(鎮痛剤)でしばらくウトウトしてくれ安心。
もっと安楽なケアを考えていきたい。

2月某日。Cさんの手術が終わった。
予定していた時間よりも1時間半早く家族が呼ばれた。
希望していたオペはできず、~オペは終了。
Cさんも旦那さんもあんなに望んでいたことなので、とても残念で仕方がない。
「これもあいつの運命なのかな・・。」と現実を受け入れようと強く在る旦那さんの姿と
Cさんを見ると、本当に無常を感じる。現実は厳しい。
お腹に傷や管が増えた。でもオペに踏み切ったCさんとそれを支える旦那さんにとっては、
今日も大切な一歩なんだ。

2月某日。何だか毎日Cさんのことが思い浮かぶ。
早く、一日でも早く家へ帰してあげたい。
オペ後、せめて問題なく回復してほしい。

数日間、処置について、薬の投与量の変更、様々なデータの記載あり。
(熱が出たり、痛みが強くならないといいけどな・・)とメモあり。
様々な症状に、自分なりのアセスメント記載あり。

Cさんと言葉が交わせるのは、準・夜勤の1/2の確率。
もっと伝えたいことはあるのに、うまく言葉にできない。
残された時間なんて考えたくないけれど、いったい何ができるんだろう。

2月末。ひさびさにゆっくり話す。
「来るたびにボロボロになってきて。」と笑って話すCさん。とても晴れた笑顔。
「病院はすごいきれいやけど、狭くてごちゃごちゃした家がやっぱりいい。」と云っていた。
一刻でも早く帰りたくて、階段で帰っていった二人。

『いってらっしゃい―。おかえりなさい―。』外泊でよく皆が口にする言葉。
この二つの言葉に対する違和感はこういうことだったのかと思う。

3月某日。在宅に向けて、様々な調整や準備について記載あり。
早く家に帰してあげたい。
二人の笑顔を見ながら、一刻も早く退院できる日を迎えたい。

4月某日。眠るCさんの傍らで旦那さんより。
桜が咲いているから見せてやりたいけど、ずっと歩かないといけない。
車椅子を買って連れて行ってやりたい。
諦めたくない。
横浜の病院を受診した。小旅行だった、と笑顔みせる。
4月は長期休暇をとった。これでずっとみてやれる。
引越しするので、早く退院させてやりたい。
でも思いより早く悪化していると涙される。
(してあげたいことが、どんどん溢れている。)

SpO2:80%まで低下。胸水・腹水による呼吸苦。
胸水400ml (右)抜水。O2(酸素)5㍑下にて改善。

準夜帯で、疼痛増強。背部へ放散痛。
デュロテップ(麻薬)使用、ボル坐使用もすぐに疼痛増強。
アンペック坐(麻薬)使用にて嘔気増強。
鎮痛剤が効かない。
旦那さんが帰ってから、「もうアカン、アカン・・。」と小さな声でつぶやくように叫んでいた。
帽子を取り、短い髪をくしゃくしゃとした。
「早くお家に帰りたい。」と私に抱きついた。Cさんの細い背中。
絶望のような悲鳴が全身に伝わってきて、私は言葉が出なかった。
「ごめんね、Cさん。何もしてあげれんくて。ごめん。」
ただ一緒に居るしかなかった。
少しだけ休ませてあげたい。そう思った。
「少しの時間休みたいですね・・。」と声をかけると、うなづいている。

4月某日。麻薬などの使用量記載。全身状態記載。
在宅Dr.、酸素、HPN(高カロリー中心静脈栄養)、etc 在宅着々。

「いつもしんどい時に居てくれるから」
「たまにはこういう元気な時も見といてもらわな」と可愛らしい笑顔で云ってくれた。

入院一週間前までは、彼女は台所に立っていたそうだ。
在宅の先生が来るからと、チーズケーキなんかも焼いたりしていたそう。

(意識)レベルが低下していた。
旦那さんが「〇〇、家に帰ろう。」と声を掛けると、満面の笑みがこぼれた。
「家に帰ろう。」って、こんなにも幸せな言葉なんだ。
by black-dolphin | 2009-08-14 15:05 | 和の話

by black-dolphin
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