One Octave

目指すは「unique」な音色。大切なのは日常。                                               

6月或る日

「先生、私このまま死んだりせぇへんやんな?」

忘れもしない、二年前のある日の夕方。
彼女は医師へ、そう訊ねたんだった。

病状は、すでに進行していた。
でも先生は、彼女にこう告げた。

「死なないために、これから一緒に頑張るや。」

彼女の闘病が、その時から始まった。

若い身体は癌の増殖力も強く、なかなか抗がん剤は効いてはくれなかった。
でも絶対に彼女は諦めず、使える薬がなくなるまで闘い続けた。
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「忙しいのに、ごめんな。いつもありがとう。」
彼女に何度、そう云われただろう。

どうしても譲らなかった屋上への散歩時間。
急変のリスクがある彼女には、とても危険な行為だった。
でも初めて一緒に昇った時、私は心の中でとても申し訳ない気分になった。

吹き抜ける風は、こんなにも心地がいいんだ。

「〇さんがここに来たい理由が、私やっと解かった気がするよ・・・。」
そう告げると、穏やかで優しい顔をして彼女は頷いた。
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余命という言葉は好きじゃない。
けれど彼女に残された時間は、もう日にち単位だった。

昨日の夜明け前。
私は彼女と二人っきりで、60分の間一緒に過ごした。

「痛い。お腹が痛い。胸が痛い。ここさすって欲しい・・・。」
「怖い。夜が来るのが怖い。寝るのも怖い。」
「しんどい。全部しんどい。どうしたらいいん・・・。」
「苦しい。お腹が苦しい。息が苦しい・・・・。」

「一人になるのが怖い。ごめんな、忙しいのに。」
「空気吸いたい、空気が吸いたい・・・・。」
「さすってもらうと、ホンマに安心する。」
「ありがとう、ありがとう。」
彼女は何度もそう呟いた。
私の白衣をぎゅっと握り締めながら、すうっと短い眠りに落ちてゆく。

呼吸は規則的で、でも喉の奥でかすかに汽笛が鳴っていた。
意識が戻ると、よく見ればかすかに鼻翼呼吸が始まっていた。

5:21
TVのデジタル時計が一分づつ時を刻むのを、私はぼんやり眺めた。
大きく膨らんで硬くなったお腹を、何を願ったのか私はさすり続けた。

私のその手の動きは、強い陣痛を癒す手の動きと同じだった。

彼女の眠る姿を見て、何だか急に泣けてきた。

死に近づいている彼女を見て悲しくなった訳じゃない。
今日もこんなにも生きてるんだと実感した。

いつの間にか夜は過ぎ去って、窓の外からチュンチュンと啼く小鳥の声がした。



いつもより遅めの仕事を終えて、強い日差しを浴びながら帰路に着く。

家のベッド上で、ぼんやりと緩和ケアの本を開いた。
誰もが1回だけ経験する死

この数年で彼女と交わした会話の一つ一つが、驚くほど急速に甦ってきた。
ただ本を開いているだけなのに、何かがまた胸を締め付けた。

その頃彼女は、どんどん深い眠りになっていったそうだ。

私が日勤で来た翌日の朝。
病棟は何となく静けさが漂っていた。

誰も何も言わないけれど、私はそれに気が付いてしまった。
いつも在るべきベッドネームが無くなっていて、そこにもう彼女は居なかった。
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彼女と過ごしたその日は、奇しくも友だちが逝ってしまったその日と同じ朝だった。
彼女が息を引き取ったその日は、奇しくも初花が生まれたその日と同じ夜だった。

座りながら、短い休息をとる揺れる身体。
誰かの存在を探す仕草。
風の通る場所で一服する細い指先。
最期まで立って、歩こうとする姿。
私に投げかけ、時には語ってくれた言葉。
いつも顔を見ると「〇〇ちゃん。」と手を振ってくれた、あの表情。

また、一生忘れらない日が生まれてしまった。

忘れたくない。
あの時々に感じた、誰にも云えない大切な時間。
by black-dolphin | 2009-06-15 22:02 | 和の話

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